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圧倒的なPC-9800シリーズ
日本電気が日本で最初にパソコンを手がけたと認識している。私はその最初の実物を見た事は無い、パソコンに興味を持ち始めた頃に見た本の中にTK-80という組み立て式で16進のキーと8桁表示のディスプレイ(液晶ではない)を配し、部品がむき出しになったシロモノの写真を見ただけである。従ってその頃の事は解らない。
写真説明<日本電気(NEC)、ワンポードパソコンTK-85
「出展:Ryochan's HomePageのパソコン回顧録(作者の許可を得て転載)」>
ポケコンの後、私が手にしたのは、1980年頃中古のMZ-2000と言うシャープ製のパソコンである。当時主流だったZ-80と言う8ビットCPU(クロックは記憶に無いが、せいぜい有って2Mz)を搭載、拡張メモリが付いて64KB(標準で32KB)メガでは無い、キロである。6インチ程度のグリーンディスプレイとキーボードが一体で、それにカセットテーブのレコーダーが付いていた。テープでゲームやBASICが供給されていて、プログラムをレコーダーから読み込むのだが、32KBのメモリである、プログラムは当然それより小さいのだが、実に30分はゆうにかかる、パソコンとはのんぴりとしたものだった(?)。
  
<写真説明>
左、シャープ MZ2000(写真は、シャープ博物館より流用) 中、フロッピいディスクドライブ5インチ1D 右、同じく MZ2500
シャープのMZシリーズには他に600とか1200があったと記憶している。日本電気はPC-6000シリーズ、PC-8000シリーズと8ビットCPU搭載のパソコンを国内市場で既に先行させていた。CPUもZ-80から8080となり、インテルがCPUで独占状態に入っていくだが、日本電気は独自のV-30というCPUを搭載し16ビットパソコンPC-9800シリーズへとシフトして行くのある。後にこのV-30はインテルとの係争にとなり、負けた日本電気はPC-9800シリーズをi286に改変するのだが、V-30対応のアプリケーションが市場に出回って有った為、2つのCPUをメモリスイッチで切り替えて使用する奇妙なパソコンを作る事になってしまった。PCシリーズは国内で先行した事もあり、使用できるアプリケーションの数は他のメーカーより5インチロッピーデス(2D)
圧倒的に多かったが、新機種を出すにあたり、それらのアプリケーションやユーザーの蓄積したデータや環境を活かすという戦略で着実にシェアを広げて行くのである。この事はWindowsの時代奇異に想うかも知れないが、当時のパソコンはメーカー間の互換は全く取れて居なかったし、同じメーカーの機種でさえ互換が取れないのが多かったのである。ちなみに、私のMZ-2000とMZ-2500は同じシャープの8ビットパソコンなのだがアプリケーションを共用する事は出来なっかた、後継機であるMZ-2500にMZ-2000モードのスイッチ付いていてMZ-2000のアプリケーションも動かせるのだ、それはあくまでも2000なのである。ソフトハウスもPCシリーズのアプリケーションをこぞって作ることになる、新機種が出るたびに造り直さなければならいものを作るより、バージョンアップをするだけのPCシリーズの方がはるかに効率が良いの当然の話である。PCシリーズはハードが売れるからソフトが売れる、この好循環は国内シェアの80%を占める事に成るのである。アプリケーションライブラリと言うのがあり、各パソコンメーカーは自社製のパソコンで動くアプリケーションの一覧をまとめた冊子を発行していたが、シャープがかなり健闘してさえ日本電気のそれに比べて5%も無かったと思う。PCでなければパソコンに有らずと、日本電気の鼻息は荒かった、絶対に値引きをしない、中古でも高値で売れる、結構資産価値が有ったりしたのがPCシリーズだったのである。PCシリーズはPC/TA互換というスタンスは取っていたが、日本電気独自のアーキテクチャを採用しており、IBMの大型汎用コンピュータに接続出来る程度の考えで作られていた。日本電気はその牙城に大いに自信持っていたのだろう。そして、他のメーカーがPCシリーズ用のアプリケーションを使用することをことごとく排除していくのである。シャープもMZ-5000・5500と16ビットパソコンを世に送るが最期の断末魔となり以後シャープはパソコン市場から撤退するのである。富士通のTOWNSやシャープのX68000・CZシリーズが一時期隆盛を極める事になるが、あくまでも趣味やゲームの世界である。(余談であるが、シャープはX68000・CZシリーズとヒットさせるが実はこの機種はテレビ事業部が手がけている、事務機事業部のMZシリーズは5500をもって確かに撤退をしているのである。)
誰もが諦めていた日本電気PCシリーズに敢然と挑んだのが、EPSONであるPC-9800のアプリケーションを丸々使用できる低価格のPC-286シリーズを作り世に出して来たのである。ここから日本電気とEPSONの鼬ごっこが始まり数年後のあるきっかけまで続くのだが。新機種を出すたびに日本電気はプロテクトかけEPSONと互換を取れなくし、EPSONはそのたびにプロテクトを外すべくフロッピーディスクを添付してくるのである。EPSONは実際PC-9800の根底を揺るがすには至らなかったが、外堀をかなり埋める所までは施行している。あるきっかけはお互いにこの闘いから手を引かざる得なくなるのである。日本電気アーキテクチャの無力化が高性能CPUの出現とメモリの低価格化によって成され、Windows3.1のリリースがDOS/V機の存在を押し上げる事になったからである。
写真説明<EPSON、PC286L・ラップトップ、デスクトップとノートの間みたいな存在、結構重たく携帯には疑問があったがバッテリーが内臓で病院に持ち込んで使った。>
286・i386のクロックが4Mz~12Mz、1980年代中盤に成るとi486そしてpentiumプロセッサが現れてくる、i486は33Mz~66Mzと一気にクロック数を上げ、最終的には100Mzまでになった。初代のpentiumは80Mzだが、i486とは全く異なったもので、処理速度は格段と速くなった。1990年代終わりに近づいた頃には800Mzとわずか10年で100倍以上の性能になるのである。DOS/V機とはPC/AT互換機で日本語処理機能を搭載し、日本市場に早くから存在していたが、この機械の日本語処理が実は曲者だったのである。本来PC/AT互換機には日本語を処理する機能がないその為デバイスドライバにによりソフトで処理をしていたのである、キャラクターもドライバに依ってイメージ化し表示をしていた。CPUの速度を取り上げた理由がここにある。なぜPC-9800がDOS/V機を何故寄せ付けなかったか、日本電気はこの日本語処理専用回路をオンボードで持っていた、結果、同じアプリケーションで動作速度がまるで違っていたのである。日本語ワープロ等は顕著にその差が出た、マッキントシュに至っては文字の大きさまで変えて表示するものだから最悪の状態だったのである。画面表示にもその画面の大きさに合わせてメモリを使用する、遅いCPU・高価なメモリ・重い日本語処理、日本電気は問題を見事にクリアしてPC-9800を供給していたのである。が、かくして早いCPU、安価なメモリの出現はこの重い日本語処理を解決したのである、少なくても日本語処理をソフトで行う分だけハードはDOS/V機の安くできる。東芝・日立・松下・ソニーと国内の主要メーカーはDOS/V機の発売を始め、海外からの攻勢も激しさを増してくる。アプリケーションもメーカー依存しない、for Windowsで全てが動く。EPSONもDOS/Vにかたよるに至ってPC-9800はEPSON対策などしているどころでは無くなるのである。日本電気の涙ぐましい防衛戦が始まったのである。PC-9801FAという機種を1990年頃に出したがこれが最期となり、Windows対応機種として、PC-9821シリーズで巻き返しを計る事に成るのだが、いずれにせよ、日本のパソコン史上、圧倒的なシェアを誇り燦々と君臨したPC-9800は零戦にも似た神話を残しその終焉を迎えることになるのである。
(おまけ)
PC-9801FAを最期の1年間使った、CPUはi386-16Mz、メモリは相変わらず1MB、120MB・HD内蔵、数値演算コプロ搭載、セカンドキャッシュも容量は忘れたが搭載してあったと思う。CPUのクロックを上げるプロセッサーなるものがあり、3倍速にし、メモリも12MB一杯に増やし、Windows3.1がとりあえず動いた。確かに、PC-9800シリーズはPC/AT互換機だった。
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