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大動脈置換手術

<いよいよ病院へ>

 平成14年(2002年)1月4日(金)の朝、いつもの軽い朝食(トーストしたマーガリンの食パンとゆでたウインナー)を終えタクシーを手配して、妻に付き添われて、開腹手術を受けるため大学病院に向かった。手術は小学1年生時の虫垂炎以来のことだから具体的な記憶も体感も覚えてはいない。従って殆ど初体験のようなものである。車の中では無言のまま、言いようの無い不安で気は落ち込んでいた。尤とも、うきうき気分で手術を受けるような人はおよそいないだろう。約30分で車は病院に着き、入院の手続きを終え、6階外科病棟に案内され入った。

思えば平成13年も暮れになりそれまでも長い距離を自由に歩けなかった足が一段とひどくなり、近所(およそ500メートル)に借りてあった駐車場まで歩いて、たどり着けなくなったのことで、掛かり付けの病院から松葉杖を借りての生活をしていたが、松葉杖で改善されるわけでもなく、限界を感じ、紹介状を書いて頂き大学病院に行く決心をしたのである。かなり永い間、仕事や生活の中で、車を使用していた事もあり、この数年前から運動不足と思い近所の川(恩田川)の両脇にある遊歩道を散歩していたりしたが、その歩く距離が短くなっているという異変には気付いてはいなかったのである。が、その時にそれ以前自覚症状が有ったと認識したのは、何年か前の大雪の際の雪掻きや、什器などの組み立て、解体などに、体がついていかなかった事を思い出したからである。大学病院での検査でこの状態はかなり永い間続いて慢性化していたと知らされて始めて認識したのである。掛かりつけの医師からは「閉塞性動脈硬化症」と診断されていた。病名もあまり聞いたこともなく、よく解らない。そこで血流を良くするという点滴の治療を約半年間行ったが改善されなかった。血流が悪くなり、養分が足に十分に届かない、さらに足に溜まった、疲労物質が取り除かれないとの診断からだったのである。

内科的治療に限界を感じていた掛かり付けの医師に、大学病院での検査を薦められていた。北里大学病院(相模原)と昭和大学藤が丘病院(横浜)が近隣にあったが、自宅からの交通の便がよかったことで昭和大学藤が丘病院を選び受診をした。たいがい大きな病院の初診は午前中である、早めに起きて、車を運転して大学病院に向かった、駐車場に車を入れるのに2時間近く掛かった、受付で紹介状と初診の申込用紙、簡単な問診票を提出する。暫くすると名前が呼ばれ2階の外科外来へと指示された。

外科外来の待合ソファーに座って待っていたが、一言に外科といっても細かく専門があり、単に外科と記したため看護師さんが症状を確認に来て、受付に戻って申込用紙を書き直して下さい。との指示に、足が動かない旨を告げ、代行して貰った。私の診療するのは「胸部心臓血管外科」とのことであった。

その日は胸部心臓血管外科の外来診察日では無く専門医師はいなかった。もしかしたらそのまま帰されるのかと感じ、出直すのは結構辛いなと思っていたら、その日の病棟担当の医師(入院患者を受け入れている病院の多くは、入院患者の為に医師を常駐させている)が診察をするというので、その診察を待つことになった。私の名前が呼ばれ、診察室に入り問診の後、ベッドに仰向けに寝た後、靴下を取り、足首にゼラチンのようなものを塗りその上にコードの付いた端子を押しつけスピーカー音を聞いているのである。ドップラー検査という血流を調べる重要な検査である。血流に問題が無ければ脈拍に合わせて、キンキンという金属音が計測器から聞こえる、一方問題が有ればその音が弱く鈍くなるのである。腕とか上半身での音を聞かせてもらったが、確かにキンキンという音がする。しかし、下半身は、ものの見事に、弱いとか鈍いとかの域を逸脱し、ザーという雑音しか聞こえなかったのである。医師は「殆ど下半身の血は流れていない」と判断し、あまり良い説明ではなかった。その日は、CT検査と検査後の診察日時を予約して、気休めの血流をよくする薬を処方され帰宅をした。

CT検査の当日は朝食を抜き病院に入った。CT検査はX線を使い、物体を輪切りにして中を見る装置である、この場合その物体は人間である。私の場合、足に問題がある訳で、胸から足首までを撮影することになっていた。血管はそのままでは映らないので、造影剤を静脈から注入する、これが結構な量である。検査後すみやかに尿として排泄させるため、検査服に着替えて控え室で待っていると看護師が水の入った紙コップを持ってきて飲むように勧めた。一瞬そのコップを見て引いてしまった。目盛りが入っているのだ。勿論新品なのだが、以前検尿検査に使用したような覚えがあった。入りと出に妙な関連が有ったものだと呆けてみた。

ドーナツ状の機械の真ん中に、ベッドが付いていて、そのベッドに横になると、ベッドが動きドーナツの真ん中を行き来する、その間にドーナッツが輪切りの写真を撮っていくのである。大きく息を吸って、止める、動いてはいけない。1回目は何かのテストだろうか?、暫く時間が空いた頃に再度、始めるのである。2回目も同じようにするのだが、今度は造影剤が一気に注入される。入っていく感覚がはっきり解る。検査室には、私以外は誰もいないのである。スピーカーで、気分が悪くならないか確認してくるが、幸い私は何事もなく終了した。その後、検査室に入ってきた看護師がベッドから起こしてくれ、静脈にうった針を抜き、できるだけ早く排尿をするようにと、指示をしてくれて検査は終了した。

検査結果は約1週間後である。その診察日はすでに予約してあったので、その日は会計を済ませ帰宅をした。一週間は普段と同じ生活をし、診察日に大学病院を訪れたが、CT検査の結果、医師はその写真映像を見ながら、手術より他に、処置の方法はないとの、診断だった。

写真を見ながら説明を受けた。最近の技術には、驚かされてしまった。3D(立体的に見える)写真に成っているのである。血管は心臓から脳に血を送り出す冠動脈、体全体に血を送り出す大動脈、体全体の血を肝臓で浄化し心臓に戻る大静脈、身体中に張り巡らされた血管網は、そうやって体内を流れている間に、人間が生命を維持するに、必要な多くの仕事をしている。腸で吸収された栄養や肺で吸い込んだ酸素を全身にはこんだり、逆に全身で使用済みになった老廃物を集めてきて体外へ排出するための準備をする。従って血が流れないということは大変なことなのである。

医師が立体的に加工された写真の一部を指摘して、心臓から出ている大動脈がほぼ胃の下から足の両股まで映っていないというのであった。つまり、造影剤が詰まった血管には入らないからその大動脈は映っておらず、血流が止まっていたという最悪の事態だったのある。確実に心臓から送り出されている血液は直接足には十分に届いていないのである。

写真の説明<左が術前の写真、大動脈の下が切れて写っていない。右は術後の写真、大動脈が写っている>

人間の体は実に不思議なものである、医師の説明に依ると、かなり長い間慢性的な症状であったため、他の細い血管(動脈)が足に血を運ぶ迂回をし、現状維持をするために機能していたのではないか、との話であった。思えば数年前の大雪で、雪掻きが辛かった事も、単に運動不足に依る体力が落ちてのことでは無く、十分な血液が足に届いていなかった事を知る事となった。体力の衰えを年齢が原因と油断していたことも事実である。

結果、治療は入院手術となったが、一時を争う危険な状態でもなく、その年の暮れも押し迫り病院も年末年始の休暇に入る事もあり、かくして、年明け早々の入院となったのである。薬物などで血栓を溶かす等で、もっと穏やかな治療法もあるかも知れないなど思っていたが、希望的観測にすぎなかった。

 6階病棟で、妻と一緒に一通りの、病院生活の説明を受け、病院内(トイレや風呂の場所、及びその使用方法)を案内され病室に入り同室の入院患者さんを紹介されベッド周りや私物の管理方法や洗面、寝具の利用方法などの説明を受け、一枚のテレビカード買ってきてから妻は帰宅をした。テレビを見る気もなく、ただぼっと時間を過ごした後、夜の病院食を食べ一日を終えたのである。胸部血管外科病棟とは結構、特殊な病棟である、直接死に至る結果もあるのである。まわりの方々に対する配慮も必要か思うと同時にまわりの方々から受ける配慮も感じるのである。なんとなくその遠慮からかも知れないが、病室の狭い空間の壁に向かって、一人ぽつんと座って食事をした。

写真説明<使用した人工血管の証明書、後日の追跡などに使うそうだ。>

<手術のその日まで>

 入院をしてからの数日は日々の血圧、脈拍、お通じや、簡単な検査(肺活量、心電図)が有るだけで、これといってすることが無く退屈な日を送ることになる。従って、同室の患者さんとのコミニュケーションも必要になる、出来るだけ良い環境にしたいと思うのだが、自分から積極的に言うのもあまり得意ではない。六人部屋で入口のすぐ側のベッドが用意された。高所とか閉所は昔から嫌いであった。そのくせなんとなく、隅は好んでいたと思う。大部屋は大体カーテンで仕切られ、食事もなぜかバラバラになってしまう。一人で閉塞感で食べる食事が嫌だと思い、隣の患者さんに思い切って「カーテンを開けていいですか?」と聞くことにした。隣は、藤原さんと言うおじいさんだったが、「どうぞ」と、こころよく、おっしゃってくれた。ベッドの間に有ったカーテンは寝るときや診察以外では開いていて、以来色々話し相手になってくれた。

入院初日に医師から禁煙を指示された。時間帯で五階病棟のエレベーター前ロビーが喫煙可能になるが、疾患内容で異なると言うのである、私の場合はその喫煙許可の対象にはならなかった。が、私が入院してから暫くすると、そのロビーでの喫煙も全て廃止され完全に禁煙となった。

煙草が吸いたくなると、入院していた病棟の五階から、一階の病院入り口にある喫煙所までいくのだが、足に障害を感じていた私は結構それが大変であった。ここは病院、煙草には寛大では無く辛い思いをした。しかもエレベーターはナースセンターの真ん前にある。従って、それは使うものなら喫煙がばれてしまう。そこで見つけたのが、病院に併設されてある救急救命センターのエレベーターである。24時間動いていて病棟の端にある。そして、ナースセンターからは見事に死角になっているのである。救急救命センターのエレベーターを使って、反対側にありほぼ病院を縦断する1階の喫煙所まで痛い足を引きずりやっと辿り着き、好きな煙草(キャスター)を吸った。喫煙所は建物の入り口なのだが、冷たい風も吹き込むし、厚手の上着を着ていったが寒かった。こんな日が何日か続いたのである。

<検査>

11日(金)に最終検査となる像影検査が行われることになった。この検査には驚かされたのである、事前同意が必要で医師の説明を受け、その上で同意書に署名捺印を求められたのである。そう、驚く無かれ最悪検査で死亡することも有るというのである。動脈に太めの針を刺し像映剤を注入しながら細部にわたるX線写真を撮るのである。確かに、動脈からの出血が止まらなければ当然死に至る、それよりも警戒されているのが血栓である、エコノミークラス症候群は血栓が脳の血流を止めて起こる病気であり、この検査が直接動脈に対し処置することでその危険性を持っているのである、しかしこの検査無しで手術は行われない、手術をしなければ半身不随、内臓機能の低下そして下肢の切断との不安が現実となっていく、病院を信じて同意することになるが、これで終焉となるならこの数年間いろいろなことがあり、悩み苦しんだ事や将来を悲観していたこと思い、そうなるので有れば、その方が幸せかと思い覚悟をしたことも事実である。

そして、無事像映検査を終え、只天井を見つめながら動かせるのは手だけの絶対安静の10時間後、尿カテーテル(チューブを尿管に挿入し排泄を行う)も外れ、又退屈な日に戻っていった。翌12日(土)は特別検査もなく外出許可も出て自宅に戻り家族との半日を過ごした。血糖値が高かった為、血糖コントロールが必要だったので外泊は認められず、その日の内に病院に戻り又、体温・脈拍・便通・血圧等日常の検査と病院生活に戻った。
いよいよ16日(水)に妻も呼ばれカンファレンス(治療に付いて、取り分け手術に付いての詳細な説明)を受け手術や輸血に関する同意書等の書類を作り。手術は18日もしくは21日ということになり、不安で頭が満杯だったが、嫌な事は早いほうが良いと言い聞かせ翌日18日を希望した。が「18日は手術室が満杯で」との応えだった。その事を伝えに来た看護師(婦)さんは、実は「麻酔科の先生が居ないのです」と内情も伝えてきた。結果21日の手術を待つことになり。ほぼ1週間を待つことになるが、検査は日常の血圧等を除き全て終わっている。それから数日はまんじりとしない日が続く。19日に外出届けを出した。これは認められ、どうせ何もない毎日だったので気分転換を含め自宅に帰るつもりでいた。が、前日(18日)に、以前に内容の説明を受けていたが、仙骨ブロック(麻酔)の施術を行うと言って来たのである。全身麻酔をする為は必要な処置で、緊急時以外はあらかじめ背骨に注射針を挿入し手術時に、麻酔薬を注入しながら痛みを消す手段なのだが、その施術を受けた為19日20日は病院のベッドをはなれることできず、当然19日の外出も消えてしまった。普通前日に行われるだが、20日が日曜日であり、19日に施術され、これら全てが病院側の都合であったのは誠に不愉快である。

仙骨ブロックとは、脊髄に注射針を挿入し菅を付けそこから麻酔薬を入れ、脊髄を麻痺させ痛さを、脳に伝えないと言う、全身麻酔の方法である。つまり脊髄には、脊髄液があり、通常人間が受ける刺激を脳に伝えている。この機能を麻酔薬で麻痺させその刺激を悩に伝えないと言うことでブロックをすると言う事ことなのである。緊急の場合は、そのような説明はなく施術されるが、私はしっかりと事前に説明されていたので納得をせざる得なかった。手術を受ける3日前のことだった。地下1階にある麻酔科は癒しを行う治療場(ペインクリニック)であり、通院患者も多数いた、事実施術後に効果を確かめる意味と、針が正しく挿入されかを確認するためテストの注射薬を注入するのだが、温かくなり気持も落ち着き多少の安心感を得た、思うにカンファレンスの後、翌日の手術を希望した事も受け入れなかった事にもなにか関わっているのかも知れないと思った。
病気や怪我の症状に関係なく手術の後に起こる大きな障害が肺炎である、肺の動きを止めて手術を行うため、手術終了後肺の蘇生と、その完全な機能回復の予防策として、呼吸訓練が行われる、胸式呼吸(胸を使った呼吸)と腹式呼吸(腹を使った呼吸)の訓練を簡単な器具であるが、数日続けることになった。心臓の手術の場合は、心肺共に止め、人工心肺の装置を付けて行う。

<手術当日>

 手術当日は当然不安である、やみくもに、できるだけ多く人に来て欲しかったが、私の希望に添ってくれたのは、妻と子供たち、そしてその連れ添い。そして驚いたことに、実の姉が故郷(岩手)から駆けつていたことであった。力強く気持だけは、頑張ろうと思った。そして、ストレッチャー(人を乗せて運ぶ車付きの担架)に乗せられ、病室の人たちに声援を受け手術室に向かうことになる。多いに不安である、これは否定でない。手術室に搬送され、暫くして口に酸素マスクの様なものを当てられていたが、その後の記憶は全く無くなってしまった。

気が付いたのはICU(集中治療室)のベッドの上である。麻酔が切れたとろで強制的に覚醒をされるのである、そのまま覚醒しないこともあると聞いた。看護師さんから呼吸訓練の時手術が終了した後呼吸をして下さいを言われますから大きく息をして下さいと言われたが、それをしたという意識、記憶は全くない。首に何本かの点滴がされていた。栄養剤、抗生物質、インシュリン等だろうが正確にはわからない、カンファレンスでもそこまでの説明は無かった。ICUでは定期的に看護師が来て、心電図や点滴を確認したりでデータを取っていたが、寝返りをさせてくれたりしたので、ほとんど意識ももうろうとした状態で睡たり醒きたりしていた。ICUには24時間の予定だったが、なにか問題が有ったのだろうか48時間居た。48時間ベッドに寝かされて居ればたいがい苦痛になるのが、看護師さんは、さすがプロである、私が苦痛になるで有ろう事態を予測し、その対策を先にやってくれるのである。枕を足に挟んで寝ると楽であるとか、寝返りをした後背中に布団を充てるとか、五時間掛かった手術で痛くなった腰のためオリジナルの充て具を作ってくれたり、苦もなくICUを過ごすことが出来た。

<待ちに待った退院>

ICUを病院の配慮もしくは病院や医療機関の逃げも有るのかも知れないが、手術前の病室ベッドは整理され、私物は全て無くなる(別に管理する事で個人を隠匿するのである)。原則手術をして成功した患者は同じ病室に帰るのだろう。私は3日前送られた病室の方々におめでとうとの喝采を受けてICUから同じ病棟・病室に戻った。尿カテーテルを始め首に付いていた点滴の管を少しづつ外し、日常生活に少しずつ戻っていくことになる